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ロイヤル・コンセルトヘボウ・コンサートマスター・ヘルマン・クレッバースの肖像

ヘルマン・クレッバースの肖像

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ヘルマン・クレッバースの肖像

ブラームス:ヴァイオリン協奏曲(録音 1973年)
ブルッフ:ヴァイオリン協奏曲第1番(録音 1964年)
ラヴェル:ツィガーヌ(録音 1978年 Live)

ベルナルド・ハイティンク、キリル・コンドラシン指揮
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 他

コンマス、ソロシリーズ、今回はオランダの名門オーケストラでコンサートマスターを務めたヘルマン・クレッバースの登場です。以前 コンマスの実力を見よ!でもジャケット画像だけは紹介しておりました。

このCDで最も聴きごたえがあったのは、曲の長さもありますが、ブラームスの協奏曲です。まず前奏のオーケストラの響きの深さ、豊かさにぐっと引きつけられます。最新録音ではないはずなのに、なんと素晴らしい響きなのでしょうか。さすが名ホールと言われる、コンセルトヘボウだけのことはありますね。素晴らしいアコースティックだと思います。もちろん録音年代ゆえの多少の混濁、ざらつき等はありますが、まずは最上のアナログ録音と言えるのではないでしょうか。
そこにソロが登場するわけですが、派手さや自由奔放さは全くありません。その結果、ヴァイオリン協奏曲というよりも、ヴァイオリン付の一大交響楽というもののように聴こえますね。それ故ブラームスの作品そのものの素晴らしさをたっぷり味わうことができました。こんな充実した体験はあまりありませんね。
これは自分がコンサートマスターを務めるオーケストラとの共演ならではの響きの一体感なのでしょうか。だからと言ってソロの音がオケに埋もれてしまうようなことは全くありません。クレッバースは分厚いコンセルヘボウ管の響きに少しも負けないパワーでもってこの大曲を弾き通しています。
クレッバースの演奏は一点一画もおろそかにしない楷書のような演奏と言いましょうか。とにかくリズム、フレーズが明確です。それは緩徐楽章のような歌う箇所でも変わりありません。とにかく音符の長さ、付点音符の弾き方等、感情にまかせて弾いてしまったり、何となく流れで弾いてしまったというような箇所は皆無です。全て自分で予めこう弾くと決めた通りにきっちり弾いているのです。それでいて分析的になり過ぎたり堅苦しく窮屈に感じたりすることはありません。むしろ、西洋古典音楽の神髄がそこからすっきりと見えてくるような気がいたします。

ヘルマン・クレッバース(1923年 – )は、オランダのヴァイオリン奏者。1943年、19歳の若さでロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(旧アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)に入団し、1962年にはコンサートマスターに就任しました。
また、アムステルダム国立高等音楽院(旧王立スウェーリンク音楽院)のヴァイオリン教師として、フランク・ペーター・ツィンマーマンを育てました。そして日本からも多くの演奏家、例を挙げるのなら、天満敦子、玉井菜採、戸田弥生などが彼の教えを受けています。

諏訪内晶子がその著書ヴァイオリンと翔ける 諏訪内晶子著『ヴァイオリンと翔ける』の中でクレッバースのことに触れているので、ちょっと長くなりますがそれを引用してみたいと思います。

パガニーニコンクールに出たとき、審査員のヘルマン・クレッバース氏に、私の作る「音程」について指摘を受けた。私たちにとって、何でもないことであっても、海外の専門家にとっては、違和感を覚えさせられることが結構多いのかもしれない。―中略―最近クレッバース氏を訪れた、或る中堅のヴァイオリニストが、「私のシューベルトを聴いて、彼が、『それは、チャイニーズ・ミュージックだ』と笑うんだ。頭に来たから、『何故だ』って訊き返したら、『ヴィブラートのかけ方が、日本のテレビで見た演歌の歌手に似ている』って言うんだよ」と、こぼした。演歌のことをチャイニーズ・ミュージックだと思っているらしいオランダ人のクレッバース氏の誤解は別として、メロディーの最後に小節を利かせて聴く者の心をとらえる演歌歌手の歌唱法が、我々日本のヴァイオリニストのヴィブラートの付け方に影響を与えているのであろうか。我々日本人は、ほとんどそれに気がつかないし、むしろ、旋律を美しく唱わせているつもりなのに、向こうの人には、それがチャルメラの節のように聴こえてしまうらしい。「太くて長い人指し指を眼の前に立ててさ、横にゆさゆさ動かしながら『ノット・チャイニーズ・ミュージック・プリーズ!』って、片目をつむるんだから、がっくり来るよな」ぼやきを聞きながら、その光景を思い浮かべて、私は思わず笑ってしまった。
注意を受けた理由は明白である。西欧クラシック音楽の演奏で、メロディーの最後の音―特に長く引き伸ばす音―にヴィブラートをかけるとき、かける強さが次第に弱まるようなかけ方をするのが普通である。ところが、日本の演歌では、音を伸ばしている間に震えを大きくする唱い方などいくらでもある。曲の最後では、むしろそれが普通に行われていると言ってよく、小節を利かすとは、そういうことを指しているのではないかと、私など思うぐらいである。聴き手はそれに快感を覚え、拍手喝采ということになるのであろう。
それが無意識のうちにベートーヴェンやシューベルトを弾くときに出たら、たとえクレッバース氏でなくとも、海外の音楽家は違和感か、ときには不快感を覚えるのではないだろうか。
ヴィブラートのかけ方一つとってみても、音色を築く手段として、彼我の感性には大きな差がある。音楽の中にある様々な要素は、東西それぞれの歴史的産物であり、その後ろには何百年という伝統がある。もしかしたら感性の違いが遺伝子に組み込まれてしまっているのではないだろうか。

これは、ヨーロッパに出て行ってみて初めてわかることなのかもしれません。やはりにその土地、土地に根付いた感性、解釈のようなものが音楽上存在するのだと思います。それが伝統的と言ったり、本場ものと言ったりしているものなのでしょう。そういえば、これと似たような話を篠崎史紀が ルフトパウゼ で指摘していましたね。