マエストロ
角川文庫 ISBN4-04-195904-7
篠田節子
いわゆるサスペンスものではありますが、密室があったり死体が転がっているようなことはありません。謎解きよりも何より、ディープなヴァイオリンの世界を描いていることにびっくりです。ここには「弦楽器業界あるある」がたっぷりと書かれているのですね。
銘器のこと、職人の楽器の調整のこと、楽器商と教師の商習慣等々。ヴァイオリンの世界に相当詳しくないとここまでの小説は書けないと思います。そういう意味では、読み手も弦楽器の世界に詳しければ詳しいほど、この小説のリアリティを深くお感じになられることと思います。
この小説の主人公、神野瑞恵は美貌のヴァイオリニスト。宝石会社の広告塔としてコンサートを行っていました。ある時その愛器、ピエトロ・ガルネリの調子が悪くなります。独りよがりな職人にヴァイオリンの調整を任せて以来すっかり楽器の音が変わってしまい、調子が悪くなってしまったのです。ところが、その職人は「この音が、悪いというなら、あなたの耳がおかしいか、さもなければ、技術がなくて、本当の音を出せないだけだ」と言い放ちます。
困り果てた瑞恵は楽器商の紹介で別の職人の下へ行き、修理を依頼します。ただその修理が長期になるということで、その間代わりに弾く楽器として2,000万円相当のヴァイオリンを工房から借りることになります。彼女はその借りた楽器がたいそう気に入りますが、ガルネリの修理が終わり、そのヴァイオリンを返す段になって、実はそれが修理を依頼した楽器職人の手になるもので、新作のオールド仕上げのヴァイオリンであったこと、実は100万円程度のヴァイオリンであったことを知らされます。
それを聞くと瑞恵は激しく逆上します。日本人の手による新作楽器をオールドヴァイオリンと思って弾いていた事、またそれに満足し、心を奪われかけていた事。そして、自分はクレモナのオールドヴァイオリンが相応しい腕前なのにもかかわらず、日本人の職人本人が作ったという安いヴァイオリンを弾かされた事が腹立たしかったのです。そのヴァイオリン職人に騙され、侮辱されたと思ったのです。
一方、職人の方としては、実は騙すつもりなどさらさらなく、純粋に自分のヴァイオリンに対して第一線の演奏家がどのような評価を下してくれるかということだけに興味があったのです。しかし最初に自分が作ったと言ってしまえば、おそらく瑞恵に自分のヴァイオリンを弾いてもらえないだろうと思ったわけです。
その後、生徒の楽器の選定シーンで、瑞恵が日本人製作家の新作を選ばずにカールヘフナーを選ぶシーンもあります。
古い楽器、クレモナ銘器への盲目的な信仰と新作、日本人ヴァイオリン製作家への蔑視等がそこに見事に描かれているとは思いませんか。
この後、物語は生徒へのヴァイオリン斡旋、楽器商からのリベートを巡っての贈収賄事件、贋作を巡っての詐欺事件へと発展していきます。この辺は実際にあった例の事件を思い出させますね。
ともかく、ヴァイオリン、弦楽器に興味のある方なら面白くて一気に読めてしまう内容だと思います。
実はこの小説はWOWOWによって映像化され、それがさらにDVDとして販売されてもいます(JDX026216)。
主演が観月ありさということだったので、視る前は一体どんなものになるのか?と思ったのですが、どうして、出来栄えは大変クオリティの高い素晴らしいものとなっております。
それは原作にかなり忠実にドラマ化ができていたということだと思います。登場する楽器や工房の雰囲気、小道具類も本物感が高く、リアリティがありますね。普通のドラマ制作ではここまでしっかり作りこめないのではないかと思います。弦楽器や弦楽器製作へのこだわりを随所に感じます。
また、どのようなものになるのか一番の不安であった観月ありさの演奏シーンは、モデルのお仕事もこなされているヴァイオリニスト枝並千花が代役を務めていますので、バッチリ決まっています。
ですから、この世界のことに詳しい人が見ると本当に良くできているなあと感心したり、ここまでリアルに描いて本当に大丈夫なの?とはらはらすることしきりなのですが、逆に弦楽器の世界にそう詳しくはない方が、この小説を読まれたり、DVDをご覧になられた場合は果たしてどのようにお感じになられるのでしょうか?興味があるところです。