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ルフトパウゼ(篠崎史紀の初エッセイ)

ルフトパウゼ

ウィーンの風に吹かれて

N響第1コンサートマスター篠崎史紀の初エッセイ

ルフトパウゼ 篠崎史紀著 ウィーンの風に吹かれて
篠崎史紀著 出版館ブック・クラブ 1600円
ISBN4-915884-61-9

ウィーンで音楽教育を受けた後、34歳の若さでN響コンサートマスターに就任した音楽界の異端児マロこと篠崎史紀がオーケストラの中で音楽がどのようにつくられ、演奏されていくのかを生々しく語った本格的音楽エッセイ。コンマスの仕事から指揮者論、そして現在の音楽教育への提言など。

その独特なファッションセンスや風貌からは“チョイ悪”といった雰囲気がプンプン漂うマロこと篠崎史紀ですが、実は中身は至極真面目。 日本の常識に捉われない本質を突いた鋭い指摘、意見には思わずうならされます。

本文より

ウィーンに行って三年くらいはインテンポという意味が全然わからなかった。
ある日、シューベルト作品のリハーサル中、突然速くなったり遅くなったり、間が空いたりすると感じることがあった。

で、「そこは待つの、遅くしている?」と聞くと、「いやいやこれでインテンポだよ」と言われる。私が「そうかな ー」と言うと、「何言ってるの、メトロノームテンポじゃないんだよ、ふつうにインテンポに」と言われる。意味がわからなくて、「えっ、どういうこと」と聞くと、「はっ?」と怪訝な顔をされるという調子だ。
それが、三年くらいしたらわかるようになった。インテンポは、その土地の言葉をしゃべれるようにならないと絶対にわからない。これは、文法を勉強しようが、本をいくら読もうが、文字を書く練習をしようが絶対に習得できるものではないことがわかった。

日本では、「インテンポ」をそのままのリズムで、そのままのテンポで、そのままの速さで、あるいは、正確な速さで、と表現するが、音楽的インテンポとは、計算された物理的な一定テンポではなく、もっと感覚的なもの、自然に安定していると感じるテンポである。それを自分のものとして体感できなければ、計算と耳から推測して複製するしかなくなるが、そこには限界がある。もしインテンポを本当に習得したければ、本場に行くしかないということになるのだろう。
留学先の異なる人と一緒に演奏すると、インテンポが合わない場合がある。たとえばウィーン人が「インテンポ」というのと、「アメリカ人」が「インテンポ」というのではまるっきり違っているのだけれど、でもインテンポすることはできる。 (わが街ウィーン-言葉と音楽の深い関係

私事でまことに恐縮なのですが・・・・
学生時代(もちろん音大ではなく普通の大学ですが)私の所属するオーケストラでドイツ人の指揮者の下でワーグナーを演奏する機会があったのですが、指揮者はやたらと「インテンポプリーズ」と叫んでいましたね。棒を見ているとこんなにテンポが動くのに、どうしてこれが「インテンポ」なんだ?とその当時の私はもちろん疑問に思いました。コンサートではアンコールに外山雄三の「ラプソディ」を演奏することになっていたのですが、その指揮者の棒ではあの有名なフルートソロ部分の雰囲気がいまひとつ足りません。G.P.終了後どうにも吹きにくいと感じたフルート奏者が堪らず「ここは自分としてはもっとタメをつくって入るところなので、そこんところはよろしく」みたいなことを(通訳を通じて)指揮者に申し入れていました。フルート奏者に言わせれば「俺の国の音楽なのだから俺に合わせろ」ということだったのでしょう。今思えばこれがまさに「お国もの」のテンポ感の違い、日独の「インテンポ」の違いだったのですね。

 

本文より

大きくなってからも、良い先生と出会うのはたいへんなことだ。高校を卒業してウィーンに行った私はまず、自分に合う先生を探すためにあちこち見てまわった。人のレッスンを見せてもらったり、いろいろな演奏を聴き歩いた。その結果、トーマス・クリスティアン先生に出会うことができた。先生の演奏を聴いたとき、今自分のほしい音楽はこれだと確信した。
先生が先生を紹介することの多い日本では、誰の紹介も受けずにいきなり先生の門を叩くのは難しい。だからといって、いつまでも受身の姿勢でいたのでは、自分にとって「良い先生」とめぐり合うチャンスはやってこない。いろんな先生に会って、自分自身で「この先生に教わりたい」と思える人を見つけることである。

楽器に関しても先生頼みではいけない。自分の楽器を自分で探す能力を身に付けておかなければならない。演奏家は、自分の演奏レベルが上がったときや自分の表現と楽器の相性が気になりはじめたとき、別の楽器を探さなければならない。先生に頼ってばかりいるようでは、本当に自分に合う楽器が見つかるはずがない。アドバイスを求めるのはよいが、自分の足で探し歩いて初めて自分にふさわしい楽器にめぐり合うことができる。
極端なことをいえば、音づくりにしても楽器選びにしてもすべて先生任せにしているようでは、そんなことあってほしくはないが、先生に先立たれたとき、たちまち路頭に迷ってしまうことになる。

音楽への自分の考え方があれば、必ずふさわしい先生、気に入った楽器を見つけられるはずだ。自分の考えがなければ、自分の音楽は生まれない。自分の意見をきちんと語れる演奏家になるためには、自分を自分で開発していくほかない。 (音楽教育について思うこと-先生との出会い

有名な先生、コンクールに何人も入賞させている先生、有名な学校で教えている先生。そういった先生に習うことができたら自分が上手くなれる、あるいはご自分のお子さんが上手くなれるのではと思っている方は多いのではないでしょうか。しかし必ずしもそうとは限りません。
それは先生との「相性」という問題があるからです。有名な先生、名教師が、 あらゆる生徒に最適であるということはまずないでしょう。生徒の性格は様々だからです。有名な先生はまた個性的な音楽家であることも多く、それがゆえに生徒によって合う合わないが極端に分かれることも少なくないと思います。相性は、 音楽性や技術面での方向性、教育者としての人間性の二つの側面から見なくてはならないと私は思います。特にヴァイオリンのレッスンは一対一で行われますので、先生の性格や人間性、人柄や雰囲気といったものがしっくりくるのかそうでないのかは、習う側の精神状態に多大な影響を与えます。
ただでさえ周囲からの雑音が多く、それに左右されることで方向を見失ってしまうことが少なくないこのヴァイオリンレッスンの世界で、成長段階にある若い音楽家が精神的に安定した状態で落ち着いて学べるということがどんなに素晴らしいことなのか全く計り知れません。ある意味それこそが上達への一番の近道なのではないかと私は思うのです。また、有名な先生ほど生徒さんの数は多くなります、しかしどうしたって先生のキャパシティには限界があります。「有名な先生にはつけたけれど、あまり頻繁にはレッスンしてもらえない」というような話は良く聞く話です。つい知名度だけで先生の良し悪しを判断してしまいがちですが、その先生が自分(自分のお子さん)に本当に合うのかどうか、まずはじっくりと落ち着いて考えるべきでしょう。

ただ、「誰々先生に師事しています 」ということを自慢したい向きには、先生が有名かどうか、門下に著名な奏者がどれぐらいいるかは大変重要な意義のあることでしょう。そういう人にとっては学校も先生もブランドの一つなのですから・・・。ブランドであるということは、手に入れることさえできれば内容が伴わっていなくても一向に構わないのです。

先生と楽器にまつわる話については、(まあ楽器屋なので普通の人よりはそういった話を聞く機会が多いとは言えますが)本当に枚挙に暇がありません。

そのいくつかを披露いたしますと

まだ学校がどこになるか決まっていないので今は楽器を買い替えられない
(いずれ習う先生に楽器は決めてもらうことになるので、今楽器を買ってしまうわけにはいかない)

自分たちは楽器のことはわからないので、先生に決めてもらいたい

先生から相談があるというので何かと思ったら、楽器を買い替えた方が良いという話だった

もはや君に足りないのものは楽器だけだ、楽器を買い替えれば必ず幸福になれると先生に言われた

のような具合です。

先生に楽器を決めてもらって良かった人ももちろんいるでしょうが、同時にそれによる悲劇も聞きます。
一番恐ろしいのは、楽器の音の良し悪し、価格の妥当性、真贋などを巡って、先生との人間関係にひびが入ってしまうことです。良い楽器に出会えなかったことはもちろん悲劇ですが、それよりも何よりも音楽的にも人間的にも信頼していた先生を失うことになることが最大の悲劇ではないでしょうか。もし成長過程のお子さんの身にそのような災いが降りかかったらショックで受験どころではないはずです。

転ばぬ先の杖ではないですが、篠崎氏の意見は全く的を射ていると言わざるを得ません。
先生がどう言おうと、最終的には自分で決めて「こう」と弾かなくては所詮いつまでたっても借り物の音楽に過ぎないのではないでしょうか。楽器だってそうではありませんか?